舞台裏の匠たち第9回鈴成り座棟梁・粟田順一さん(2/3)
舞台裏の匠
インタビュー
どのような経歴を歩まれてきたのでしょう?粟田さんにインタビューしました。
1~2週間で引継ぎ、鈴成り座棟梁に
ここで勤められて、どのくらいですか。
15~6年…もっと経っているかもしれません。
以前は、他のお仕事をされていたのですか。
『つむら工芸』という、テレビ・舞台などのセットを制作する会社に10年ほど勤めていました。そのあと、フリーランスの大道具をしていたこともあります。
大道具のキャリアが長いのですね!
でも学生時代は、ヒューマンアカデミーの、舞台と全然関係のない課にいました。就職活動で、たまたま仲の良い奴から、一緒につむら工芸の会社訪問に行かへん?って誘われたのがきっかけです。大きな会社なので、大阪城ホールに配属されたり、テレビの大道具をやったり。
その頃、大道具という仕事に魅力を感じるようになったのでしょうか。
普通にサラリーマンをするよりは、僕にとっては面白かったです。僕は基本的にデスクワークが無理なんです(笑)。30歳のとき、フリーの大道具になりました。一緒に野球をしてた人に、仕事手伝ってくれへん?って言われたのがきっかけでした。フリーなので、『今日はこの劇場へ行って』みたいに言われて、体一つで劇場へ行っていました。
鈴成り座からは、どのように声がかかったのですか。
仕事でなんばグランド花月に行く機会があったんですが、そこでお世話になっていた人から、話がありました。鈴成り座の前の社長さんが、吉本興業の方と知り合いだったのと、前の棟梁さんが辞めることになって人を探していたんですね。
その頃は、大衆演劇のことは全然知らなくて。とりあえず一緒に行ってくれへん?みたいに言われて、初めてここに来ました。1~2週間で、あらかたの引継ぎをしました。次の月から僕一人。なんせ初めは、わからないことだらけでした。
正解というのがない
初めは大変だったのですね。
道具も今より揃っていなかったですし、何より僕が、大衆演劇について知らないことだらけじゃないですか。引き継ぎした次の月からいきなり、外題の昼夜替えが多いし、六景や七景の芝居があるし、どうやってやったらいいのかと。だからもう、日々、悩みました。
どのように乗り越えられたのでしょう。
『すいませんけど、入って間もないので』と言って、わからないことを一つずつ、劇団の太夫元さんやベテランの方に聞いて、教えてもらいました。結局、棟梁と言ったって、劇団さんが一緒に手伝ってくれて、舞台が成り立つものですから。
舞台袖、出番前の劇団メンバーと、芝居に出てくる「奉行所」談義をしていた粟田さん。
「北町奉行所は青い襖ですけど、南町奉行所は色が違うらしいですね」。ベテランの役者さんに、教えてもらった知識だそうです。
鈴成り座のお白州のセットは、元は『マリア観音』のために作ったものなので、北町奉行所に合わせてあります。
大衆演劇の世界に入られて、今までやってきた大道具の世界とは違いましたか。
全然、勝手が違いますね。他の舞台の大道具って、『頭』になる人がいて、その人の指示通りにみんなが動くんですよ。大衆演劇の棟梁は、そうじゃないです。劇団さんと打ち合わせもしたり、自分なりに考えてお客さんに見せなきゃいけなかったり。
劇団さんによってもやり方が違うので、わからないことはいまだにあります。
大衆演劇ってどれが正解、というのがないと思うんです。劇団さんの考えによって、舞台の組み方も変えます。道具をたくさん出していても、演劇の邪魔になったら要らないし…。
だから今でも日々、勉強ですね。
鈴成り座には、毎年乗っている劇団さんも多いです。お馴染みの劇団さんの場合、お芝居の準備も慣れているかと思います。
いえ、僕はあえて、お芝居は覚えないようにしています。劇団さんによって、同じお芝居でも内容が違ったりするので。それは、前の棟梁さんに言われたことですね。お芝居は覚えないようにした方がいいよって。
あえて、まっさらな状態からお芝居準備をされているのですね。道具を作ることもあるのでしょうか。
僕は道具を作れる人ではないので、どうしても作る必要があるものは、専門の会社にお願いしています。基本は、ここにある道具をいかに使って、お芝居が要求通りにできるかです。
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