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大衆演劇・基本編

大衆演劇とは何か、と言われると一言で答えるのはなかなか難しいです。ですが、多くの方は大衆演劇と聞いた時に、一定のイメージを思いうかべられるのではないのでしょうか。「南条まさき」の芸名で舞台に立つこともある、大衆文化研究家の鵜飼正樹教授は、大衆演劇の特徴を以下のようにまとめています。
  1. 一座は家内労働的な意味が強く、座長などは2代・3代と続く家業となることも多い。
  2. 都市の下町にある劇場や、地方の温泉・ヘルスセンターなどの舞台を中心として活動する。
  3. 一年中ほぼ休み無しで公演する。
  4. 義理・人情を主題とした時代劇芝居と、歌謡・舞踊ショーの演目を日替わりで行う。
  5. 料金が安い
一部の有名役者を除いて、役者の多くはメディアにほとんど出演しないため、一般的な知名度は高いとは言えません。しかし2021年11月の時点で全国に120ほどの劇団があります(※かんげき調べ)。それぞれ10名ほどの団員を抱えると仮定すると、全国で大衆演劇の役者はおよそ1000人ほどいると推計できます。これは日本の他の伝統芸能である歌舞伎や文楽、大相撲などと比べても相当多い数なのです。 このように多数の劇団や役者が存在するということは、それをささえるファンが相当数いることを示しており、またそのファンをひきつけるだけの魅力を持っているということなのです。今日も全国でたくさんの観客が毎日劇場を訪れ、大衆演劇の魅力に浸っているのです。
大衆演劇の芝居大衆演劇の多くが剣劇シーンのある時代劇を主に上演しています
大衆演劇の舞踊ショー現在の大衆演劇では芝居の他に、歌謡ショーや舞踊ショーなどのショーが存在するのが多数派となっています。
大衆演劇の劇場開演前の大衆演劇劇場、大阪府の羅い舞座京橋劇場です。写真のように全席椅子席の劇場もあれば、座敷席の劇場もあります。今日も日本各地の劇場で大衆演劇の舞台が開催されています。通常の商業演劇に比べると入場料は安価です。

大衆演劇の魅力

ケレンのある、派手な演出
大衆演劇の芝居の特徴は、「ケレン」にあると言われます。ケレンとは見た目本位の奇抜さや、派手さを狙った演出です。また、決め台詞や決め所でたっぷりと時間を取る演出も行われます。こういった演出を嫌う方もいますが、何よりもお客さん本意に立った演出であり、大衆演劇を「大衆の演劇」たらしめている特徴ともしているのです。こういった姿勢は歌舞伎界や他の商業演劇の関係者からも注目されており、他の演劇での演出に取り入れることも行われています。 もちろん、「ケレン」が効果を発揮するためには、しっかりとした地の芝居が必要です。ケレンの裏にあるこうした芝居に気づくと、大衆演劇の芝居はより味わい深い物となります。
大衆演劇ならではの美の世界
1980年代の大衆演劇ブーム以降、たいていの公演には女形を演じる役者さんが出演します。女形とは男性の役者が女性を演じる物ですが、「女性らしさ」を追求した役者さんによるその姿には、一種独特の美があります。 またショーで着られるステージ衣装は、かなり派手で、しかも奇抜な物が多いです。 こうした日常では決して出会えない美に出会える場所、それが大衆演劇の舞台なのです。
役者とお客の距離が近い
大衆演劇は舞台と客席が近いですが、これは役者とお客さんの距離が近いということを意味しています。非日常的な美しい役者さんの演技が、かなり近い場所で演じられます。この迫力は、舞台が遠い商業演劇では得られないものです。さらに舞台だけでなく、幕間での物販を役者さんが行われることや、ショーの際に役者さんが客席を回られることもあります。 また近いのは物理的な距離だけではなく、精神的な距離も近いのです。いわゆる「客いじり」と呼ばれるお客の存在をいじる演出や、「はんちょう」と呼ばれるお客さんからのかけ声などは、その近さを表す物です。役者さんへのご祝儀を、舞台上で送る「お花」とよばれることが発生したのは、この両方の「近さ」があるからこその慣習なのでしょう。 2010年代に人気を集めることになったAKB48などの「会いにいけるアイドル」といったファンとの距離の近さをアピールする手法は、大衆演劇が先取りしていたという方もいらっしゃいます。
わかりやすく、シンプルな題材
大衆演劇の芝居の多くは、勧善懲悪(かんぜんちょうあく)と呼ばれる、善玉が勝ち、悪が滅びる形式だと言われています。また悲恋ものなどの人情ものも多く上演されています。単純ですが、それだけに人の心に訴えるところが多いのです。
毎日見られる、違った演目
大衆演劇では毎日、場合によっては昼夜二回公演でも異なった芝居やショーを行っています。しかも一回あたりの観劇料が1000〜2000円程度と安く、さらにショーだけ見ると割引になる場合もあります。毎日見ても違ったものが見られる、それが大衆演劇ならではの魅力です。
ショーの魅力
大衆演劇、と呼ばれますが、演劇、つまりお芝居だけではありません。現在、多くの劇団では歌謡や舞踊、ミュージカル形式などのショーを公演の柱の一つとしています。ショーの衣装は時代劇の制約からは慣れた自由な物で、最近では音楽や演出にもほとんど制限はなく、予想外の趣向が凝らされています。
大胆な演出ドライアイスで湯気と煙を表現した石川五右衛門の釜茹でシーン。ケレンの代表としては衣装の「早替え」や、現在ではあまり行われない「宙乗り」などもあります。 また使われる音楽にも制限はなく、演歌からJ-POP、時には洋楽でも演出に使うなど「なんでもあり」。
ゴージャスな衣装大衆演劇名物の一つがゴージャスな衣装。金糸、銀糸をふんだんに使ったゴージャスな衣装から、現代、時に未来的と古今東西のイメージが衣装となります。
努力から生まれる美大衆演劇ならではの女形。メイクだけでなく、洗練された所作が女性らしさを産み出します。もちろん大衆演劇には女性の役者さんもおり、それぞれの美を競っています。たまには男性が女性、女性が男性役を演じることもあったりします。
舞台と客席がとても近い基本的に舞台と客席の距離はとても近いですが、劇場によっては舞台と客席の距離がほとんどなく、役者さんの息づかいを身近で感じることができるところもあります。
劇場に張られた大入袋劇場ではお客さんがたくさん入った日には、大入袋を配ります。「大入り」が出た日には壁に大入袋が貼られます。
ロビーには公演の告知が張り出されています。劇場のロビーには近々行われる演目の告知や、翌月以降に訪れる劇団の告知があるなど、様々な情報があります。また、公演後には劇団員によるお客様の「送り出し」があります。劇場を出る瞬間まで楽しめる、それが大衆演劇の劇場です。

大衆演劇の歴史

一 大衆演劇のルーツ

各地を巡業して芝居を上演する形態がいつ頃開始されたかは明確ではありません。江戸時代初期には歌舞伎が誕生しましたが、その創始者である出雲阿国の一座も旅芸人でした。江戸幕府によって許可を受けた公許の芝居は歌舞伎として発展していきましたが、その一方で全国を回る旅芝居・旅芸人とよばれる一座も数多く存在していました。両者の間に全く交流がなかった訳ではなく、初代中村歌右衛門のように旅芸人出身の歌舞伎役者や、また歌舞伎を離れて旅芸人となる物もいました。 明治時代になると、公許の歌舞伎団体は国劇・大歌舞伎と呼ばれて更に大きく、格調高いものとして発展していきました。一方で旅芝居・旅芸人の一座は中歌舞伎・地方歌舞伎の名で一定の地位を築いていました。 一方で、文明開化によってもたらされた西洋からの文化は、日本の文化に大きな影響を与えました。演劇界もその例外ではなく、既存の歌舞伎に対して、新しいものを産み出そうという動きが活発になりました。川上音二郎らの新派、島村抱月らの新劇は、歌舞伎の型ではない、新たな演技を人々にもたらしました。 この頃誕生した芝居の形式の一つが「節劇(ふしげき)」です。節劇は浪曲師が謡う浪花節(なにわぶし)にあわせて役者が演技をするというものでした。唄にあわせるため、役者は見せ場でおおいに盛り上げることを第一に演技をするようになりました。 また大正11(1922)年、新劇出身の澤田正二郎は、演劇半歩前進主義を唱えて、観客が喜ぶ芝居を求めて「新国劇」を立ち上げました。新国劇の芝居はリアルな立ち回りで人気を博し、剣劇(チャンバラ)ブームを巻き起こしました。 剣劇は節劇に取って代わる形になりましたが、見せ場で盛り上げる演出手法などは、剣劇においても使用されました。この節劇と新国劇の剣劇が大衆演劇の直接のルーツだと言われています。
澤田正二郎大衆演劇の祖の一人と言われる 新国劇・澤田正二郎
康楽館秋田県小坂町の康楽館。 明治時代末の建造で、恒常的に大衆演劇が開催される劇場としては日本最古。
尾上松之助「目玉の松ちゃん」の愛称で呼ばれた、最初の剣劇映画スター尾上松之助。 歌舞伎役者となる前は、尾上鶴三郎あるいは三升源五郎の芸名で一座を率いる旅役者でした。

二 剣劇の黄金時代

剣劇劇団は浅草六区や道頓堀を中心に、多くの芝居小屋を建て、大衆の人気を得ていきました。昭和8年頃には女性が剣劇の主役となる女剣劇が生まれ、これも人気を博しました。戦時中、終戦直後には統制を受けましたが、それでも九州地方で行われた座長大会には人が押し寄せたといいます。 この頃の劇団の座長は、スケールの大きなひいき筋の支援もあり、お大名のような暮らしができたと回想しています。この黄金時代は昭和10年から昭和16年(1935〜1941)、戦争をはさんで昭和20年から昭和28年頃(1945〜1953)まで続いたといいます。この頃のスターとしては不二敏夫、中村駒三郎、梅沢昇、金井修、大江美智子(初代・二代目)、不二洋子が知られています。また、尾上松之助や長谷川一夫のように、劇団でキャリアの一部を送った映画俳優もいました。近衛十四郎のように、映画界出身ながら劇団を立ち上げて興行した人物もいます。またピークの頃には全国の劇場は600館を超えていたといいます。 昭和20年代には、劇団関係者の間で、自らの演劇を指して「大衆演劇」と呼ぶことがはじまりました。自然発生的なもので、誰が最初に言い出したかはよくわかっていません。
浅草六区1930年代の浅草六区。 芝居小屋や映画館が立ち並ぶ、庶民娯楽の殿堂でした。国定忠治や月形半平太といった、現在でも大衆演劇での人気演目ののぼりが見えます。
雄呂血阪東妻三郎主演映画 「雄呂血(おろち)」(1925年) 映画でも剣劇は大人気でした。後に松井誠が「大殺陣・雄呂血」として上演しています

三 大衆演劇の危機

黄金時代が一段落しても、大衆演劇劇団は相変わらず庶民の身近な娯楽でした。当時はチャンバラ映画も大ブームでしたが、多くのチャンバラ映画で主演をはった美空ひばりも、演技の参考にと女剣劇の中野弘子の舞台を見ていたそうです。 しかし、やがて劇団には大きな危機が訪れることになります。テレビの出現です。昭和34年(1959年)には皇太子御成婚、昭和39年(1964年)には東京オリンピックと大きなイベントが相次いだこともあり、テレビはたちまち娯楽の中心となっていきました。多くの実演型の演芸は大打撃を受けましたが、大衆演劇も例外ではありません。関西では常打ち(毎日公演がある)劇場は昭和35年(1960年)に55館ありましたが、昭和38年(1963年)には31館、昭和40年(1965年)には20館、昭和43年(1968年)には14館、昭和48年(1973年)にはわずか5館になってしまいました。劇場関係者も「ひょっとしたら絶滅するのではないか」と思うほどであったそうです。 このような状況を打開するべく、劇団は模索を続けていました。昭和35年(1960年)頃に舞踊ショーや歌謡ショーが公演に取り入れられるようになり、現在のような大衆演劇のスタイルが築かれましたが、一方で芝居を重視するベテランの反発を受けました。劇団に残った後継者は時流にあうように芝居を改良するなどの試行錯誤を続けていました。この苦しい時期の1970年代頃に、「大衆演劇」という言葉が一般にも定着したとみられています。
テレビ大衆演劇に存亡の危機をもたらしたテレビ。ですが、大衆演劇復活のきっかけを作ったのもまたテレビでした。

四 大衆演劇の復活

昭和52年(1977年)、東京に常打ちの劇場である浅草木馬館が開館しました。木馬館は予想以上の集客に成功し、これを受けて全国各地に劇場が新規開館するようになりました。また全国の大衆演劇団体が共同して大衆演劇を盛り上げようとする動きも活発になり、昭和55年(1980年)に嘉穂劇場で行われた第二回全国座長大会はNHKで全国放送され、大きな反響を受けました。 さらに昭和57年(1982年)にはTBS系列で、「淋しいのはお前だけじゃない」という連続ドラマが放映されました。市川森一脚本、西田敏行主演のこのドラマは旅芸人の一座を舞台としたもので、数々の賞を受賞するなど高い評価を受けました。そしてこのドラマに出演し、大きな注目を集めたのが梅沢富美男です。さらに梅沢の歌手デビュー曲「夢芝居」は大ヒットし、翌年の紅白歌合戦に出場することになりました。 これらの出来事が重って大衆演劇に注目があつまり、大衆演劇ブームが巻き起こりました。大衆演劇と言えば女形という認識が広がり、女形が各劇団に存在するようになったのはこの時期です。しかし苦しい時代を耐えてきた実力ある役者や劇団はこの機会を単なるブームでは終わらせませんでした。また、この時期に入門した若手達も、後の大衆演劇をささえる役者に成長していきました。 2000年代になると、座長の若年化が進むようになりました。10代の座長も珍しくなくなり、メディアなどで取り上げられる機会も増加しました。一種のアイドル的な人気を持つ座長も増加し、若い世代からの注目も集まっています。 ブームが一段落した後も、大衆演劇はかつてのような危機の時代を迎えることなく、一個の確固とした地位を築いています。それはかつての危機の時代を知る関係者が、現状に安住せずに新たな道を追求していく、そのような姿勢を持っているからではないでしょうか。
嘉穂劇場現在でも全国座長大会が開かれる 福岡県飯塚市の嘉穂劇場
沓掛時次郎「淋しいのはお前だけじゃない」は、2003年に中村獅童主演で舞台化されています。また、ドラマでは各話のタイトルに大衆演劇の題材を用いていました。画像は第6話のタイトルになった「沓掛時次郎」(1954年)の映画ポスターです。 大衆演劇を舞台としたテレビドラマには「いちばん太鼓」(1985年、NHK)や「ワンハート〜この空の下で〜」(2003年、TBS)等があります。こうした作品には実際の大衆演劇の役者さんが出ていることも多いです。もちろん大衆演劇と直接関係のないドラマに出演することも。

参考文献

  • 「芝居通信別冊 大衆演劇座長名鑑2003」オフィス・ネコ(2003年)
  • ぴあ伝統芸能入門シリーズ「大衆演劇お作法」ぴあ(2004年)
  • 宮本真希「大衆演劇における『お花』とは何か―見せることの意味―」(2013年)
  • 鵜飼正樹「大衆演劇はグローバル化の時代をどう生き抜くか?」(2011年)
  • 橋本正樹「あっぱれ!旅役者列伝」現代書館(2011年)
  • 小川順子「チャンバラ映画と大衆演劇の蜜月 : 美空ひばりが銀幕で果たした役割」(2006年)
※「大衆演劇の歴史」の画像は、ウィキメディア・コモンズによるパブリックドメインの画像を使用しております。