旅芝居女優名鑑第3回藤乃かな「男だったらここまで勉強しなかったと思います」
旅芝居女優名鑑第3回は、藤乃かなさん。
九州は熊本、役者の家に生まれ、4歳で初舞台。劇団都の座長として活躍後、フリーの役者に転向し、現在様々な舞台に出演しています。
幼い頃は舞台が嫌いで逃げ回っていたそう。それがいつしか父や兄姉の背中を追いかけ、やがて自分自身の芸を追求し、個性を極めていく…女優・藤乃かなのこれまでの道のりに迫ります!
第1章
幼少期から女優に目覚める3つの転機まで
舞台より裏方が好きだった
まずは生い立ちと舞台に出始めた頃のことを。
生まれは熊本で、父は都新太郎、母は山口秋。ともに役者をしていました。2人の兄(都京太郎、三条すすむ)と姉(愛京花)がいて、私は末っ子です。
初舞台は4歳の時、司京太郎劇団(その後都京太郎劇団、劇団都と改名)で。お芝居では姉(愛京花)が主に娘役をやっていたので、私は子分役か、舞踊で立ち役1本踊るくらいでした。
小学5年で子役大会に出て、「あの子たずねて」という曲で地毛で宝塚の男役さんみたいなセットで踊ってから、自分は立ち役が好きなのかなーって思って、それからずっと立ち役ばっかりやってましたね。
実は小さい時は舞台が嫌いで、逃げ回っていたんですよ。 物心ついた時には姉(愛京花)が劇団の娘役として活躍していて、下には4つ違いの姪っ子(京太郎の長女)がいたんですが、その姪っ子と一緒の舞台に出るのすごくいやだったんです。
兄は大人と同じように子役にもお金をかける人だったから、姪っ子は花魁のこしらえとか、特注で作ってるんですね。 私はサイズの合ってない鬘や着物を着せられて、とりあえず飾りで出されるんです。
姉と姪っ子に挟まれて、私は何?って、コンプレックスが強くて、めちゃめちゃひねくれてました。早く劇団から出て行きたかった。
舞台に出ないときは裏方の仕事をしていました。舞台より裏方が好きで、特に照明が好きでした。今から思えば、照明はお芝居のいい勉強になりましたね。
学校は毎日4時間目まで行って、その後、舞台に出ていました。転校は苦になりませんでしたね。友達をいっぱい作りたかった子だったので、どの学校でもそれなりに楽しく過ごしていました(笑)。
舞台に目覚めた3回の転機
好きではなかった舞台と向き合うようになったのは、3つの転機があったおかげ。
1つ目は中学の時です。
美容師になる夢を諦めてから、真剣に舞台をやらなきゃなあって思いました。
それには母のやり方がうまかったのもあるんですよ。
14歳の時、母から通帳をポンと渡されて
「これでご祝儀を自分で管理して好きなものに使いなさい」と言われたんです。
そこから自分のお金で衣装や鬘を揃える楽しさに目覚めました。良いものを身につけたら嬉しくて、舞台に張り合いも出て、もっと頑張ろうと思うようになりました。
2つ目は姉の出産と劇団移籍です。
姉が抜けるので、私に女役が回ってきました。 19歳の時かな。いきなり勉強が始まった感じです。それから23歳くらいの時、劇団荒城さんの浅草木馬館公演で初めて「阿部定」をさせてもらったことでも、また1つ舞台が楽しくなりましたね。
3つ目の転機は28歳で、朝日劇場で1ヶ月、玄海竜二会頭(九州演劇協会)との共演させてもらったこと。
お芝居での立ち役は1回だけ、あとは全て女役で、1ヶ月で28人の女性を演らせてもらったんですが、この経験が本当に大きかったですね。
「また一緒に芝居したいと思われる女優になりなさい」
十代後半から二十代、女優としてメキメキと頭角を表した藤乃。
その影にはどんな努力があったのでしょうか。
インタビューで「あなたにとって女優とは?」と聞かれるんですが、自分のこだわりってそんなにないんですよ。
ただ、父に「相手に『またこの女優と芝居したい』と思われないとダメだぞ」と、言われていました。
つまり、相手にとってやりやすい女優になりなさいということ。
自分がどうとかじゃないんですね。相手に求められる演技。
自分が主役の時は、もちろん自分の役作りをしますが、例えば「吉良仁吉」のお菊など、決まっている役があるじゃないですか。そういう役の時は、立ち役さんがやりやすいように演じます。
与えられた役に近づき、その役になりきること。
この1点が、今も変わらない私のこだわりですね。すごく勉強が要ることですが…
基本、負けず嫌い。気づけば舞台にのめり込んでいた
とにかく負けず嫌いだったんです。
兄の相手役が姉から私に変わった時、とってもやりづらそうにお芝居してたんですよ。 どこが悪いとかは言わない。それが申し訳なくて…。
女優の演技1つで、立ち役がかっこよくも悪くもなる。
私、お兄ちゃんが大好きだったので「お兄ちゃんをカッコよく見せなきゃ!」ってめちゃめちゃ考えました。