木戸番のエッセイ・天職先は大衆演劇!第32回英昇龍編前編~優伎座~(4/4)
ここで、北九州市(福岡県)と「大衆演劇」について、触れておこう。
九州の大衆演劇事情は、大衆演劇の評伝の第一人者である橋本正樹さんが調査し、詳らかにされている。
以下、氏の著書を参考に、まとめさせていただく。
「大衆演劇」も世の中の動き(経済)に影響されることが多い。 日本の経済の中心はもちろんエネルギーである。先の大戦の前後にも、日本を支えていたエネルギーは、長年「石炭」であった。
確かに日本は、明治中頃より国策によって石炭の生産増強が推し進められてきた。
中でも、福岡の筑豊は1世紀にわたって日本最大の石炭地帯であった。 なんと、国の出炭量の半分に及ぶ石炭を産出し続けたのである。 そこには、300近い鉱山があり、その鉱山の「黒いダイヤ」を目当てに全国からあつまった炭鉱夫が、なんと35万人もいた。
そんな彼らの楽しみは、「呑む、打つ、買う」など、至って短絡的であった。 宵越しの銭は持たない、でっかいことが好き、侠気にとんだ、いわゆる「川筋気質」が生まれてきた。
そんな中、時の政府はますますの生産増強と鉱山の風紀改善に着手。 炭鉱夫やその家族の娯楽施設として、劇場をたてはじめた。 これが、大当たりをとり、48の劇場が筑豊一帯に開場し、規模の大・小はあったものの、本格的な芝居小屋もできた。
これらの劇場で、活躍したのが「大衆演劇」だった。
ただし、「川筋気質」をもった、喜怒哀楽の激しい筑豊のファンには、さらっとした芝居や、中途半端な喜劇は相手にされなかった。とにかく「芸が3分、喧嘩が7分」の気風がつよく、芸を生む力は、まずは腕っぷしというのが、いかにも九州らしいのである。
それに、「黒いダイヤ」のスポンサーの存在も筑豊の「大衆演劇」を盛り上げた。 結果、戦前の九州には、百あまりの劇団がひしめいていた。 なかでも、剣劇の樋口次郎、歌舞伎の流れをくむ中村円十郎、新派の梅林良一、節劇(浪曲劇)の南條隆、江味三郎、玉川成太郎、春日新九郎などは、人気であった。
その七人衆に拮抗したのが、三代目三河屋桃太郎や、初代・鹿島順一、富士川昇、佐々木代志丸で、若い世代に人気があった。 また、居合い抜きの剣劇を売り物に彗星のごとく現れた若手がいた、初代の大川竜之助で である。二代目にも人気のあるものが現れる。
そんな系図は、今も引き継がれて、二代目市川市二郎と弟の市川英儒の登場となる。 市川英儒が率いる劇団が「優伎座(ゆうきざ)」。
その「優伎座」を、中学生の健斗も見ていたのである。
(続く)
プロフィール
小野直人
生年月日 | 1953年 |
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1953年 滋賀県大津市生まれ。日本大学・農獣医学部卒業。
小野牧場オーナー、総合学習塾 啓数塾塾長、構成作家(テレビ、ラジオ)を経て、現在は、あがりゃんせ劇場の木戸番として、多くの大衆演劇の劇団や幅白い大衆演劇のファンと交流をもつ。「KANGEKI」で「木戸番のエッセイ」を連載中。
劇団情報
優伎座
2005年2月に座長の市川英儒が旗揚げ。劇団名は、劇団員全員が優れた技(芸)ができるようにと「技」の文字をもじり「優伎座」と命名された。公演によっては座長自身が脇役に回る事もあり、チャンスを与えることにより劇団員全員の芸の向上を目指している。