旅芝居女優名鑑第4回美穂裕子「いないと困る」と言われる女優になろう(2/6)
第2章 厳しい修行時代
下積み3年
高校入学を辞めて劇団に飛び込んだ裕子。待っていたのは想像以上に厳しい日々でした。
私が入った時は、今みたいにすぐに舞台に出してもらえるわけではありませんでした。 舞台に出てなくても化粧だけはして、まず音響につきました。
しきたりも厳しくて「女は一番最後にご飯を食べて誰よりも先に食べ終われ」と言われました。
お風呂も男が先で女は後。ずっと当たり前と思ってきましたが、これは改善した方がいいと思いますね。女の子の方が早く起きないといけないのにね。
洗濯も自分でしたことない子が、誰よりも早く起きて、お風呂はいつも一番最後。女性の座員さんもいましたが、ほとんどが年上で座長の身内ばかり。給料は安いし(笑)。
何度も辞めたいと思ったけれど、たとえ少しの間でも世話になったと思ったし、親の反対を押し切って来た手前、意地もありました。
初舞台はついて出るだけの女中役
芝居も舞踊も一から覚えるにはたくさんの苦労があったのでは。
私は不器用な方だったので、全てが苦労でした。羽二重も自分でかぶれなくて、座長のお母さんにかぶせてもらっていました。 今は多少着付けがおかしくても舞台に出ますけど、ちゃんと着られないなら出るなという時代だったので、もたもたしてたら出してもらえませんでした。
初舞台は松山劇場。忘れもしません。「人情紙風船」と言うお芝居の、ついて出るだけの女中役でした。
あとはずっと子分役。「やろう!(ざぶっ!)」で、死ぬ役(笑)。
3年以上は下積みでした。 私や、紅劇団の紅ちあき姉さん、劇団美川にいた吹雪舞姉さん…、私と同じ外からの人間はすごく苦労していると思います。
個人舞踊は2年経ってから。ちゃんと踊れるまで二代目先生(大川龍昇)が絶対許さなかった。来る日もくる日も遅くまで稽古です。
舞踊は二代目先生に習いました。まずは演歌を踊れ、お客さんが知っている曲を踊れ。稽古は厳かったですが、今は感謝しています。 日本舞踊をしっかり教えてもらって、他の舞踊は出来ないけれど、それ1本でやってきたことに後悔はないです。