木戸番のエッセイ・天職先は大衆演劇!第12回真珀達也~三桝屋座長~前編4/4
Ⅲ
待ち合わせは、劇場の前。 夏の日差しの片側が暗くなり、夕立になりそうな空模様、遠くで雷鳴が轟いた。 祐希は、雷に目をむけ「何か起きそうだ」と、独り言を言った。 祐希18歳の夏である。
待ちあわせ場所は熊本の山鹿市にある『寿楽園』である。
看板には「三桝屋」座長市川謙太郎とある。 当時、祐希は「大衆演劇」については門外漢であった。
事実、「三桝屋」も市川謙太郎も知らない。大衆演劇に誘ってくれた友達がその辺を察して、芝居が始まるまでの休憩時間の間に、簡単に説明をしてくれた。
「三桝屋」の前身は、「市川市二郎劇団」であると、話を始めた。 「市川市二郎劇団」は、平成30年に結成65周年を迎えた伝統のある老舗劇団で、市川市二郎の名跡は、約100年の伝統を持つ。
「市川市二郎劇団」では、代々、座長は市川市二郎である。 もともと、初代の市川市二郎は、寂しいことではあるが、芝居の最中に舞台で死んでしまった。遺言をうけて、その時の二代目をしていた市川市二郎は、急遽、一座を率いることになるが、石炭から石油へのエネルギー革命による筑豊の斜陽化にともなう不況のあおりを受けて、残念なことに劇団は、解散してしまう。
そして、二代目の市川市二郎は、二代目の樋口次郎劇団のところに客分として入り、共に活動をするのである。いわゆる二枚看板であった。
そこで市川市二郎は、ファンであった光子と結婚する。そんな折に、初代の市川市二郎以上の人気と、大衆演劇界の後押しもあって、二代目の市川市二郎は、初代の市川市二郎を名乗ることになる。
それで、二代目は息子の市川市二郎(市川よしみつ)になった。よしみつには兄弟がいる。 よしみつの下が、かずひろ、えいじ、そして、けんたろうとつづく。
当時、二代目の市川市二郎(市川よしみつ)が、市川市二郎劇団の座長をしていて、市川かずひろは「劇団華」を、そして市川英儒は「優伎座」を率いている。
そして、平成12年から座長をしていた市川謙太郎のもと、平成16年(2004)に、「市川市二郎劇団」から「三桝屋」に改名されている。
と、「大衆演劇」通の友達から色々と説明があったが、いよいよその「三桝屋」の公演が、始まる。
※
ブザーがなり、まずは芝居がはじまる。祐希の期待がいやがおうにも高まる。
芝居は古典的な「笑いあり涙ありの人情芝居」であったが、大衆演劇の芝居の魅力を十分に満喫した。
次は舞踊ショーである。 影アナで座長の紹介があって、舞台の中央に飛び出す謙太郎、艶やかな女形だった。
祐希はハッとした。
「なんだ、この美しさは」
祐希の美しさに対する感覚は、常人の域を超えている。 この女形には感動を超えて、憧れすら感じた。
それから何回か劇場に足を運んだ。 送り出しの時に、座長とも握手もした。そんな瞬間の喜びを今でも覚えていると祐希はいう。
座長も、この青年が気になっていた。 「きっとこの世界に興味があるのであろう」 そして座長は考えた。 あの青年は、年も若い。タッパもある、声もいい、顔もいい。これは役者にぴったりではないか。
大衆演劇の役者が持つべき3大要素は、「1声 2顔 3姿(所作)「である。
「うちの劇団で、役者をやってくれないかなあ」
そんな思惑もあって、座長と祐希の話し合いが、何回も持たれた。 しかし祐希にはⅭⅮデビューの話が秒読みの状態にある。 「どうする、祐希!」雷鳴を伴った天の声がする。
(続く)
プロフィール
小野直人
生年月日 | 1953年 |
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1953年 滋賀県大津市生まれ。日本大学・農獣医学部卒業。
小野牧場オーナー、総合学習塾 啓数塾塾長、構成作家(テレビ、ラジオ)を経て、現在は、あがりゃんせ劇場の木戸番として、多くの大衆演劇の劇団や幅白い大衆演劇のファンと交流をもつ。「KANGEKI」で「木戸番のエッセイ」を連載中。
劇団情報
三桝屋
平成30年(2018)に結成65周年を迎えた伝統ある老舗劇団。 市川市二郎の名跡は、約100年の伝統を持つ。 平成16年(2004)に「市川市二郎劇団」から「三桝屋」に改名。 劇団オリジナルのお芝居も多く、劇団のお芝居と伝統を大切に受け継いでいる。 主役=座長にとらわれず、「みんなが主役」をつとめ、若い座員達の成長と活躍も目が離せない。 令和3年(2021)に真珀達也が新座長を襲名。