旅芝居ささえびと第3回三吉演芸場新社長・本田明子さん(2/3)
子どもの頃から大衆演劇は傍にあった
三吉演芸場は前身も含めると昭和5年創業。初代社長は明子さんの祖父でした。明子さんのお母様である本田玉江会長が、昭和48年に大衆演劇の劇場として経営を引き継ぎました。
なので、物心ついたときから、大衆演劇ってすごく身近にありましたね。当時は建て替え前の古い建物で、裏階段が自宅に繋がっていたんです。だから外を通ることなく、階段を上がると舞台が観れました。
子どもだった私は、しょっちゅう覗きに来ていた記憶があります。当時はまだ母が経営者になる前で、映画の間に大衆演劇をやるという体制でした。
子どもの頃の、忘れがたい思い出はありますか。
私が大衆演劇の劇団さんについて覚えている、一番初めの記憶ですね。市川雀之助(いちかわ・じゃくのすけ)さんの劇団が三吉に乗った時、その劇団にとても素敵なお兄ちゃんと、優しいお姉ちゃんがいました。
当時の私の年齢から、おそらく二つか三つぐらい上だったと思うので、子役の方たちですね。その優しいお姉ちゃんに遊んでもらったことを、よく覚えています。
雀之助さんも、温和な感じの、いつもにこやかな座長さんでした。母は、雀之助さんの舞台がとても好きだったみたいです。
玉江会長は、舞台に愛情を注がれた情熱の人というイメージがあります。ご家族から見ると、どのような方だったのでしょうか。
子ども思いの、ちょっぴり教育熱心な「普通のお母さん」でした。でも、私はまだ2、3ヶ月ですけれど、劇場経営に足を踏み入れてみて、やっぱり母はすごかったんだなあと思います。
かつての三吉は、二階が劇場で一階は銭湯だったので、母は風呂屋の番台に座っていました。その母が、まったくの素人なのに、ただ芝居が好きだということだけで、こういう世界に入っていって、しかも色々なアイディアを実行に移していきました。すごかったんだな、あの人と今さらながら思っていますね(笑)。
私が高校生の頃、母が劇場経営に乗り出して、父がそれを支えるような形になりました。でも私は身近にありながら、あまり関わることがないままでした。やっぱり特殊な世界っていう印象をずっと持っていたんです。
お友達を誘って観たりということはしても、自分がのめり込むことはなかったんですが…。
衝撃を受けた、ある劇団の千穐楽
大衆演劇の印象が変わるきっかけは何だったのでしょう。
17、8年前ですかね。ある劇団さんの千穐楽で衝撃を受けたんです。
それまでの私が持っていた千穐楽のイメージって、ライトとか音響とかもきれいに片づけられて、どちらかと言うと、さらっとした公演だと思っていたんです。
でもそのときの座長さんは、舞台で本当に大汗かきながら、アンコールに応えて踊っていました。お客さんの盛り上がりもすごかったです。すごい、私が気がつかなかっただけで、大衆演劇ってこんなに変わっていたんだと思いました。
こんなに身近にあるんだから、ちょっと通ってみようかしらと思って、兄が社長を務めていた三吉演芸場に、客として通い始めたんです。
明子さん自身、大衆演劇ファンとして客席から観ていた時期があったのですね。
はい、客席に座っていると演芸場への不満も含めて、色々なお客様の声が聞こえて来ます。
お客様に勧められたり、自分が、良いなと思った劇団を観に、東京はもとより、関西、九州へも出向きました。
熱心に色々な劇団さんを観るようになったら、どの劇団さんも素晴らしい個性をお持ちで、こんなに元気をくれる日本の大衆文化の一つをもっと盛り上げたい、お客様が心から楽しめる劇場にしたいと思うようになりました。
2010年には、勤めていた外資の航空予約システムの会社を辞めまして、三吉演芸場の電話番をするようになり、劇場のホームページも作りました。
予約システムの会社にお勤めされていて、もともとITには詳しかったのでしょうか。
いえ、見聞きはしていたのですが、自分でホームページを作ったのは初めてです。
まったく何も分からずに、ホームページ作成方法というのをネット検索して作りました。なので大変、稚拙なものです。もうちょっときれいに作り上げようとか、そういうことができないまま、もう12年も経ってしまいました。
ゼロからご自身で作られたということに、情熱を感じます!
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