KANGEKI2022年7月号Vol.70

舞台裏の匠たち第6回床山・丸床さん「床山は、人の記憶の中にしか残らない仕事だから」(3/5)

取材日:2022年4月10日
舞台裏の匠たち 第6回 床山・丸床さん 「床山は、人の記憶の中にしか残らない仕事だから」 (3/5)

十代の早乙女太一さんに付くことに

 

大衆演劇に関わり始めたのはどんなきっかけだったのでしょう。

丸床

仕事で関わる前に、一回、栃木の『船生かぶき村』に連れて行ってもらって、そこで初めて大衆演劇を観ました。ご飯食べながら芝居が観れるんだ、すごい、江戸時代の芝居小屋みたい!って楽しかったですね。

そのときに股旅物で出てた子どもたちが、今の三咲春樹座長・三咲夏樹座長(劇団暁)だと思います。以前話したときに『たぶんそれ、俺だよ』って言ってたから。

初めて大衆演劇の仕事をしたのは、映画の『座頭市』(2003)です。あの映画の鬘をやることになって、そのときに橘大五郎くん(橘劇団座長)と早乙女太一くん(劇団朱雀二代目座長)に初めて会いました。

 

映画『座頭市』公開当時、大五郎さんは16歳、太一さんは11歳でした。

丸床

太一くんはまだ子どもで、大勝館の斎藤恒久社長が大五郎くんに入れ込んでて、『大ちゃんの鬘をやってほしい』って言われました。

じゃあ会社の仕事とは別に、俺が個人的にやろうかな、みたいな感じで関わり始めました。そのうち太一くんも大きくなってきたので、太一くんもやってくれっていう話になって。

既に相当忙しかったけど、太一くんは、俺の中でもやってみたいなっていう役者でした。

だから条件として、俺が出す鬘に文句言わず、俺の好きなようにやらせてほしいと。もちろん希望は聞くけど、俺が違うなと思ったらやらない。

それを条件としてお願いしたら、好きなようにやってくれていいですって言ってくれました。

あの頃、俺の中の大衆演劇のイメージって、良いものは持ってるけど、見せ方としてもうちょっと洗練できるんじゃないかなっていう気持ちがあった。

だから太一くんには、色物の鬘は被らせず、櫛もギラギラした物は使わず、小ぶりの品の良いものを使う。目立つよりも、きれいで品の良い、とびきりの美女が良い。

そういう考えで、鬘合わせは徹底的にミリ単位で詰めていきました。そうしたら、その方向でどんどんブレイクしていったでしょ。こっちからすると狙い通りでした。

 

派手に目立つ物は使わず、あえて引いた見せ方をされたのですね。

丸床

鬘は役者さんより一歩引いてるくらいが良いんです。 あくまで主役は役者さん。本人のキャラが消えてしまう様な鬘ではダメなんです。 鬘や簪が凄いって言うのは花魁とかだけでいい。鬘の品評会ではなく、あくまで道具ですから、舞踊にしても役にしても本人に寄り添ってるくらいが一番良いんです。

 

当時は、大衆演劇の鬘は個人で引き受けて、会社の仕事も同時にされていたのでしょうか。

丸床

そうです。だから10時から18時までは普通に会社で働いて、そこからご飯を食べてお風呂入って、家で21時から夜中の3時まで大衆演劇の鬘をやる。

結局、これを10年ぐらい、毎日やってました。途中から劇団朱雀だけで手一杯になっちゃって、太一くん専門みたいになりました。

今、俺が床山の仕事をしていて、役者さんからこれはダメですって言われてやり直すのは、年に一回あるかないかです。それぐらいまで技術が上がったのは、簡単なこと。それだけの数をやったから(笑)。

 

それでも、誰でもできることではないと思います。

丸床

いや、もうやめたくてもやめられないじゃない。俺の家には絶えずに十何枚の鬘があって、順に出していっても、最初に出したやつが2~3か月後に返って来る。やってもやっても終わらない状態です(笑)。

その間に、太一くんのツアー公演の打ち合わせもあり、衣装とか曲がメールで送られてきて、じゃあ曲がこうだったら、頭はこうで飾りはこうかなっていうのを考える。代われるもんなら代わってほしいって、途中から喉まで出てたもん(笑)。

床山の仕事って他の人に代われないんです。

1枚の鬘を結う時、周りは私が結います、髷は他の人が結います、とはならないんです。
鬘を結うとは、最初から最後まで手を付けた床山さんが責任を持つ、ということ。 鬘に現れる色味や形は、その人特有のもので、その人にしか出せない。だから、同じ鬘でも結った人で違う感じになるんです。

 

それにしてもハードな生活でしたね!

丸床

俺も若かったから(笑)。30代後半で、油が乗り切ってギラギラしてる時期だったんでね。

3日に1回くらいのペースで、22時とか23時に電話がかかってきて、浅草に呼ばれて、横浜から浅草へ行って、朝の4時とか5時まで付き合って、そのあと会社に行くんですよ。

俺は365日、コンビニ営業でした。あの当時は、劇団側の稽古自体が、むちゃくちゃ凄まじかった。

斎藤社長も、太一くんや大五郎くんに舞踊を教えてた東流の先生も、みんな凄まじい情熱でした。

劇団の公演が21時くらいに終わって、食事して、23時ぐらいから東流の先生が待ち構えてて、そこから夜中の3時とか4時まで舞踊の稽古。太一くんがまだ小さい頃は、顔や首に白粉が付きっぱなしのまま、バスローブ着て、舞台上で倒れて寝てたこともあった。

今、大ちゃんも、太一くんも、天才って言われるじゃない。だけど当時の稽古を見ていた俺からすると、天才じゃなくて、努力の人。あれだけしごかれりゃ、上手くなるって。

だから、大ちゃんも、太一くんも、同じ曲を踊ってても、何回でも観たくなるの。

 

十代後半、早乙女太一さんは、大衆演劇の外の世界にも、広く名前を知られていくようになります。

丸床

16歳から18歳あたりの太一くんは、太一くん本人にしても、私にしても、最高の仕事が出来ていた時期と思います。

違う床山さんが、違うアプローチで、早乙女太一の良さを引き出してくれるんだったら、そのほうが良いんじゃないかと思って。いつまでも俺のカラーで鬘をやってると、太一くんを縛ってしまうし。

今振り返っても、あの時代はすごく楽しかった。その代わり、自分の限界も見えてしまったというか。ぶっちゃけて言えば、俺のネタ切れということです(笑)。

一区切りついたところで、いい機会だなと思ってやめました。

女形鬘の結い直し中。

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