木戸番のエッセイ・天職先は大衆演劇!第1回美月凛(紀伊国屋劇団)前編(4/6)
Ⅲ
「ニノ」とパソコンの日々
2000年問題に揺れた平成12年には、凛は市内にあるG商業高校の経営管理課マーケティングコースに進学した。
世間の大人たちが、バブル崩壊の後始末に落ち着きをなくしていたとき、お気楽にルーズソックスをはいて、流行り始めた携帯電話を片手にパーティーなどを楽しんでいる小ギャルをわき目に、本人は真面目ですよとばかりに、紺のソックスと標準服に身を固め、パソコンや簿記に真面目に取り組んだ。
元来、凛はあきっぽい性格だったが、不思議とパソコンは飽きなかった。 飽きないと言えばもう一つ、アイドルの応援も飽きることはなかった。当時、女子高生の間でウケていた歌手は、浜崎あゆみや宇多田ヒカルだったが、凛は男性アイドルにはまっていて、中でも1999年にハワイでデビューした「嵐」に夢中になった。
凛の推しは「松潤」でも慶応ボーイの「桜井くん」でもなく、なんとあの地味(?)な「ニノ」であった。ライブに行って、力の限りに「ニノ」とさけぶのが凛の青春。「ニノ」命であった。
「ニノ」のすべてがかっこよかったのである。
うた・ダンス、そして映画俳優としても「かっこよかった のである。
あのダーティーハリーのクリントイーストウッドが監督としてメガホンをとり、ハリウッドという映画の聖地でダックを組んだ、「硫黄島からの手紙」は、アカデミー賞の部門賞にも選ばれた秀作で、日本人兵士としての「ニノ」の役どころに評価が高かったのも事実である。
「ニノ」とパソコンにあけくれた、高校生活も就活を迎えることになる。
実家は家族規模の印刷会社を経営していたが、凛は、岐阜でも屈指の業績を誇る有名印刷会社、Y印刷を志望した。進路担当の先生は、無謀な挑戦だとなかばあきれて、本人には身の程にあった企業を推してきた。
しかし、凛は高校の勧める企業にはおことわりを入れ、背水の陣でY印刷を受験。 午前中、筆記を受けたが、あえなく玉砕! 午後の面接も、何を聞かれ何を言ったのかさえ、思い出せない。
これは、落ちたな。高校には、不義理をしているのでもう頼めない、こまった、こまった、こまどり姉妹である。
しかし、凛のあたまにはなぜか、あの不吉な「敦盛」の一節は聞こえてこない。 そうだ、駅前にいって「敦盛」の君に会おう。駅前には金ぴかの織田信長が、端正な面持ちでこちらを見ている。「頼むよ。ノブナガさま。」
そして、奇跡が起こる。合格の通知が届いたのである。