舞台裏の匠たち第10回神戸の床山チーム「中川かつら」(2/4)
ダンサーから床山へ
それでは、中川さんが床山という職に就かれた経緯を教えてください。
僕は高校を出てすぐ、ダンサーをしていたんです。梅田コマ劇場(大阪市北区)という、いまはない劇場ですが、約10年、そこのミュージカルチームにいました。18歳から28歳ぐらいの頃です。
なぜ、床山に転身されたのですか?
ダンサーとして洋舞をするには、僕は背が低すぎました。だから10年目で考え直して、細かいことするのが好きだったので、舞台の小道具さんになろうかなと思っていたんです。芸能関係の仲人さんに相談したら、たまたまそこに鬘屋さんがいて、梅田コマの床山の部屋に連れていかれました。その頃の梅田コマの床山チームは、親方と弟子が3人いて、僕が4人目でした。
最初はどういった仕事から始めたのですか。
鬘の網を洗ったり、鬘をきれいに解いて、電熱でコテを焼いて、その熱で毛の癖を取ったりする作業です。すると鬢付けがまたパアーッと生きてきて、光るんですよ。艶が出てくる。僕たちがそれを終えてから、親方が結うという流れでした。
梅田コマ劇場では、どのくらい床山の修行をされたのですか?
約10年です。そのあと東京へ行って、新派や、東宝の現代劇の鬘をやりました。その前後に、大阪の歌舞伎の床山さんが僕を使ってくれたので、歌舞伎の勉強もできました。
さまざまな種類の舞台に関わってこられたのですね。
僕は、4人の親方に教わりました。皆さんそれぞれ、違いました。
『鬘はシルエットが良かったら良い』という人もいれば、歌舞伎の親方には『綺麗に、舐めるように結え』と教わりました。歌舞伎の鬘というのは、舐めるようにピシーッときれいですから。
でも逆に、『油をあまり付けずに自然な感じの結い方で』という親方もいました。ナチュラルさを追い求める新派だと、油気のない、艶のない頭の方が良いんです。
今も、それぞれの親方から聞いたことを思い出してやっています。
独立し、全国の大衆演劇場を回る
いつ、独立されたのですか。
46歳のときです。阪神大震災の少し前でした。
大衆演劇とはどのように関わり始めたのでしょう?
弟子時代も、梅田コマ劇場の親方と一緒に、大衆演劇の手伝いに行ったことはありました。独立した頃、たまたま、うちのお母さん(千鶴子さん)が、大衆演劇のチラシを見たんです。姫路のパンダというお風呂でした(姫路健康ランド)。
もう一つ、西脇のパンダでも芝居をやっていて、チラシが出ていました(西脇健康ランド)。
お母さんが電話して、『床山ですけど仕事ありますか?』って聞いたら、『すぐ来てください』って言われて。そのとき初めて仕事をやらせてもらった劇団さんは、今もずっとお付き合いがあります。
※編集部注…姫路健康ランド、西脇健康ランドにはパンダの大きな像があったので、愛称でそう呼ばれていました。大衆演劇公演を行っていましたが、いずれも現在は営業を終了。
現在は宅配便で鬘を送ることも多いかと思いますが、当時は、劇場へ直接足を運んで、仕事をされていたのでしょうか。
そうです。荷物を車に載せて、お母さんと二人で行って、楽屋の一部屋を借りていました。朝日劇場、浪速クラブ、オーエス劇場、鶴見グランド劇場(鈴成り座の旧名)…昔からある劇場は、だいたい行ってます。
『この鬘、明日被るから』って頼まれたものは、夜中、役者さんが寝ている間に結い直しをしていました。
若手の役者さんだと、持っている鬘の種類が少ないこともあって、すぐの直しが必要になるんです。夜の部が終わってから鬘を頼まれて、『明日の昼の部までに』と言われることもあります。
神戸から遠い所でも、出張されていたのですか。
はい、ほとんどの劇場へ行きました。九州もです。
南は鹿児島から、北は青森かな。
持っている鬘が多い劇団さんだと、全部結い上げるまで、二人で一週間ぐらい滞在したこともあります。
ご夫婦の仕事の役割分担はどのように?
私の役割は運転手と、営業です。
「営業」ですか?
中川 僕が仕事をしていたら、役者さんが話しかけてきます。今日はこうやって喋っていますが(笑)、僕はもともと喋るのが苦手な人間です。だから、この人に役者さんの話し相手をしてもらっていました。この人は、喋りがほんとに上手なんです。
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