大衆演劇では様々な題材が取り上げられており、黎明期である江戸時代から、人気のある演目というのがいくつも生まれています。ここではそういった演目や題材の概略を記しています。観劇の際にご参考に、また面白そうと思われる演目がありましたら、ぜひ劇場に足を運んでみてください。同じ演目でも劇団によって演出や脚本が異なりますので、見比べるのも楽しいです。細かい用語などについては大衆演劇豆辞典をご覧下さい。
このページでは「あ行」の項目について解説します。
下総取手宿(茨城県取手市)の酌婦(しゃくふ)お蔦は、ある時腹を空かせた男を助ける。男は相撲部屋から破門された茂兵衛で、再入門を許してもらう旅にでているとのことだった。お蔦は茂兵衛の身仕度を整えてあげ、送り出すのだが…
長谷川伸の脚本で、1931年(昭和6年)に初公演されて以来の人気演目です。最初はさえない姿の茂兵衛が、後半ではうって変わった姿を見せます。「しがねえ姿の土俵入りでござんす」のセリフは、三波春夫の浪曲でも謡われています。
江戸時代の作家。1642年(寛永19年) – 1693年(元禄6年)。浮世草子から浄瑠璃脚本、俳諧まで幅広く手がけた作家で、元禄文化を代表する人物の一人です。
新町の遊女梅川に入れあげた、飛脚問屋亀屋の養子忠兵衛は仕事も手につかない様子。ある日、忠兵衛の友人八右衛門は、亀屋に運搬を依頼した金が届かないことに気づき…。
もとは宝永7年(1710年)に実際に起きた事件。このテーマを元にしたものでは、近松門左衛門の冥土の飛脚や、それをもととした「けいせい恋飛脚」、歌舞伎の「恋飛脚大和往来」等の作品が知られます。
侠客一家三河屋の二代目となった政五郎。各所に挨拶回りに出るが、鬼龍院一家の親分、大五郎は政五郎からの挨拶状が届いていないと激怒していた…
いわゆる侠客物ですが、劇団によって役名が異なっていることもあります。
目が見えない沢市を思い、妻のお里は壷阪寺に視力の回復を祈って参詣していたが、良くなる気配がない。悲観した沢市は、満願成就の日に滝から身を投げてしまい…
もとは『壺坂(阪)霊験記』という浄瑠璃で、奈良県高市郡高取町にある壺阪寺の霊験を讃えたものです。「妻は夫をいたわりつ、夫は妻に慕いつつ」という浪曲のフレーズで有名です。
京都の大経師(暦を扱う商人)の妻、おさんは手代の茂兵衛と恋仲になり、ついに駆け落ちをして丹波(現在の京都府・兵庫県北部)に逃亡するが…
姫路の米問屋、但馬屋の娘お夏と手代の清十郎は恋をしてしまうが、主人の娘と手代の恋が許される訳も無かった。二人はついに駆け落ちを決意するのだが…
寛文2年 (1662年) に実際に起きた事件を元にした作品。井原西鶴や近松門左衛門によって作品化され、多くの人々の涙を誘いました。現在姫路市にはお夏と清十郎の墓が現存しています。
坪内逍遥らによって舞踊化された『お夏狂乱』はショーの題材としても使われます。
息子の清吉と暮らしていた安兵衛は、後妻としておまさを迎えるが、清吉はおまさになつこうともせず…。
義賊「鬼薊清吉」の物語は上方落語や講談、歌舞伎でよく知られています。モデルとなったのは江戸時代の盗賊、鬼坊主清吉と言われています。
名うてのスリだった早瀬主税(はやせちから)は、ドイツ語学者酒井俊蔵の書生となり、新進気鋭と呼ばれるほどの学者として将来を嘱望されていた。主税にはお蔦(おつた)という柳橋芸者の馴染みがおり、将来は夫婦になろうと誓い合っていた。しかし芸者と結婚することは、経歴の傷となると考えた酒井は、主税にお蔦と別れるように命じるのだが…
原作は泉鏡花の小説で、明治時代後期に発表されました。新派でも人気演目になり、大衆演劇でもよく扱われています。酒井への義理とお蔦への愛情の間で揺れ動く主税と、一途に主税のことを想うお蔦の心情、そしてその後の急展開も見所です。「別れろ切れろは芸者の時に言う言葉…」というお蔦の名台詞がありますが、これは舞台版のみのセリフで、原作小説には出てきません。